超感覚的世界〜いわゆる霊能力とかサイキックといわれる世界です。

この霊的な認識能力には、色んな段階が(もちろん私も含めて)ありますが、超感覚的世界へと意識がひらかれていくにあたっての心得や道標が、ルドルフシュタイナーの『いかにして超感覚世界の認識を獲得するか』に、わかりやすくあるので、これからシリーズでシェアしていきます。

その1

その2に続き

今日はその3です。

道の発端をなすのは魂の或る基調でなければなりません。この基調は真理と認識への畏敬、礼讃の小道と呼ばれています。

尊敬する人物を畏敬の眼差しで見上げる子供たちがいます。その子供達は心の奥底に批判や反論の思い浮かぶのを禁じようとする畏敬の念を持っています。やがて若者に成長して、何か尊敬すべきものを仰ぎ見ることができたとき、彼らの心は喜びに充たされます。

それを隷属や服従であると思ってはいけません。始めは他人に対する子供っぽい畏敬であったとしても、それが後には真理と認識に対する畏敬にまで発展します。

尊敬するに価する相手に対しては、それにふさわしい仕方で尊敬するという態度を学んだ人間は、精神を自由にするすべもよく心得ているものです。

そして心の奥底から畏敬が沸き起こる場合、常にその畏敬の存在は正当なのです。 P27

 

真理と認識への畏敬

畏敬と言う言葉は、どのように心に響くでしょうか。

 

私たちよりももっと高次の存在があるという深い感情を自分のなかに生み出すのではなければ、私たち自身が高次の存在へ高まる力を内部に見出すことはできないでしょう P28

 

私がこの畏敬に初めて出会った出会ったのは、子供の頃「生命への畏敬を」と筆で書かれた日めくりカレンダーです。1669810_724640477573029_8426624526205438267_o

「生命への畏敬」って何?どういうことだろう? わからないなりになんだかとってもカッコいい奥深い言葉に感じて、ずっと「生命への畏敬」という言葉が気になっていました。

日常生活ではあまり口にしたり聞いたりする言葉ではなさそうだし、本や文字で出会うことが多そうな言葉です。だからでしょうか、身近な大人に意味を聞くことは、私にはありませんでした。

そして意識していると、意識している方にアンテナがむくのは当然のこと。アンテナにひっかかる事柄は引寄せていることとも言えます。

私は周りの人達の行動から、これが生命の畏敬をしている行動だなとか、この人はそういうこと知っている人なんだなとか、と少しずつどんな意味なのかなあ〜と感じ取りながら大きくなっていきました。

 

自分に響く言葉を自分のなかで繰り返すって、いわゆるアファーメーションですが、それ自体が自己教育環境をつくるんだな、と思います。

親や先生などの身近な人達の口癖なども影響は強いですけれど、たった1回出会った人、出会った言葉が、自分の内側で育っていくってあるものだなあと改めて実感します。

 

生まれつき畏敬の感情をもっている人、もしくは幸運にも教育によってこの感情を育てることができた人は、後に高次の認識への通路を求めるときの用意がすでにかなりできているといえます。

このような用意ができていない人は、自分で今、畏敬の気分を育てようと努力しなければなりません。そうでないと認識の小道の第一段階が既に難しいからです。

私たちの文化生活は尊敬したり、献身的になるより、批判したり、裁いたり、酷評したりする方に傾きがちです。批判や酷評は高次の認識力を失わせ、それに反して献身や畏敬は高次の認識力を育てます。

高次の認識力を得るために必要なのは、人間崇拝ではなく、真理と認識とに対する畏敬だということが強調されなければなりません。

 

超感覚世界の道のりの一歩めは、畏敬の感情を育てること

真理と認識への畏敬」とシュタイナーは言っています。

誰だって、道のりの途中で転落や脱落する時や、しそうな時はあるけれど、それを受け入れ認めてまた歩き出す時の一歩めも、やはりこれだと感じます。

だから基本はいつでも大事。

いつだって希望があるってことだなって私は感じますが、いかがでしょう。

その4に続きます。