2ヶ月前に、ひょんなことからネットでみた白十姉妹の里親になりました。
包みを受け取りサロンで鳥と対面した時が、実は十姉妹を見たのが初めてだったので、とても衰弱しているけれど健康な鳥とどのくらい違うかよくわかりませんでした。
「なんて小さい鳥なんだろう。傷薬をつけるのも拒むし、生きるか死ぬかわからないけれど、とにかく最後まで見守ろう」と思った私は、時折シータヒーリングを使っては、あとは鳥に任せていました。
サロンには、定期的に通うヴァイオリンの生徒さんもいらっしゃいます。
子供達も、レッスンの度にこの小さな鳥と出会うのも楽しみにしていてくれて、初めて触らせてくれたよ!とか、初めて手にのった!とか、少しずつ元気になっていく変化を話してくれます。
そんなある日のレッスンのこと。
ヴァイオリンのレッスンにいらしたシータヒーラーさんが、ふと話してくれました。
「この鳥、棺桶に片足突っ込んでいたのに、本当によく生き延びましたね。すごい生命力ですね。最初に見た時は難しいかもと思っていました。」
「美紀さんが、病院に連れてったり他の人に預けようとしないで見守っているのは、かつて自分に同じことがあったからで、美紀さんはそれに気づいててやっていると思ってました」
言われるまで全く気づかなかったのですが、それを聞いた時、何かがストンと腑に落ちました。
私は、この人生のなかで半死半生になった体験が何度かあります。
その度に周りに助けていただいて必死で生き延びて今があるなあ、と思うのですが、
ふと思うに、今回鳥を引きとってから
鳥を見守りながらも「ダメ、絶対に死なないで!」と思ったことが一度もなかったのです。
それは、当人(鳥)の自由だから。
その人生(鳥生?)はその人(鳥)の時間だから。
どうであっても命の貴さの違いはないし、また時間の長い短いに価値の違いはない。
どの瞬間も、生きているときは命の輝きが紡がれている時間。
そんなふうに思っていました。
私は、この鳥が死のきわまでいっていたところで出会い、回復していく時間を見守ることで、かつての自分を別の立場から追体験することで、大切な何かを見届けたかったんだな、と思ったのでした。
そのヒーラーさんと、
「そういえば自分がすごく弱っている時に、「大丈夫?」とか「頑張って!」とか「前向きに生きることだけを考えなくっちゃダメ!」とか言われると、周りの好意がつたわってくるだけに、ありがとうと思う一方で、人と会うとその想いに応えなくっちゃと、僅かなエネルギーを振り絞ってたのが、実はすごくしんどかったのを思い出したわ。」
と話していたら、彼女もそんな体験があったようで、こういう風にいわれたのが、結果的に一番生きるエネルギーがわいた、などと話がすすみました。
自分に起きていることは、全て自分がひきおこしていますが、
自分のどんな未来に、自分のエネルギーを注いでいきたいですか。
私は、喜び溢れる人生をつくっていかれる選択を一つずつ積み重ねていこう。
そんなことを思う機会にもなり、
鳥もまた、命の喜びの分かち合いに訪れてくれたのだと思います。