ある日のヨガでの最後の安らぎのポーズ(屍(しかばね)のポーズとも)のことです。
突然、呼吸が苦しくなって、パニック症状に襲われました。
きゃー、世界に何もなくなって吐き気と恐怖にのみこまれそうです。
その日、身体の縮んでいたところが初めて緩んで伸びた瞬間があったので、その部分に溜まっていた感情なんだろうな、と真っ白になった頭の片隅で思いながら一生懸命呼吸を続けて自分をなだめながら、なんとかその時間をすぎました。
終了後、すぐに向き合うのが怖かったので、公園の緑のなかでしばしゆったりしました。
大地と緑は、大切な「いま」に私の意識を取り戻してくれます。
そして改めてその時の感情を感じてみました。
すると、過去最も怖かった、死の瀬戸際の時の恐怖でした。
私は、かつて何度か、死の瀬戸際までいくような突発的な出来事があって、もうおしまいだというときに、感情のスイッチをきって生き延びるために行動するということがありました。
感情のスイッチを切って生き延びるのが使えるとわかると、嫌だと思うと感じないようにすぐスイッチを切るような回路ができがちです。
けれども、向かい合えるまで棚上げというか封印しておく、というのは、そのときの自分を護るための行動でもあるので、自分自身の準備の時間がいるのだな、とも理解していました。
誰もが、それぞれにマイペースで生きている。
で、
すごく怖かった。
その怖いなかにそのままいました
どのくらい時間がたったか
緑に包まれて
それは感情だと気づきました
生きていて死の恐怖を感じている
とたんに世界の色が鮮やかになりました
私は生きている
呼吸している
経験した過去の場面の感情を再体験しながら、自分が向かい合えるまで、自分や周りの人の死への恐怖の感情をずいぶん引き寄せてしまったなあ〜
ため息をつきながら、ずっと自分が望んでいた道のりにいたことに気づきました。
それぞれの呼吸のなかで、共に幸せに生きる、それが望み。
怒りや憤りは、ある意味アグレッシブです。
でも怒りや憤りの奥にあったのは悲しみでした。
悲しみは動けなくなり、進めなくなる。
どうしていいかわからなくて、ずっと閉じ込めていたんだ。
肺は悲しみを溜めるのを引き受けてくれる臓器ですが、
本来肺は、喜びを自分と世界で交換するところです。
肺を活躍させる呼吸
呼吸は、私たちが意識して動かせる。
そう、悲しみで生きるか
喜びで生きるか
呼吸のしかた次第で、私たちが選ぶことができる。
生きているから
以来、私にとって肉体に生きる最後の瞬間まで呼吸すること自体が、生きる安心と喜びの拠り所になっています。
過去のネガティブな感情はでてきますが、自分の死の恐怖より怖いものでなければ、感じても大丈夫なのではと思えるようになりました。
そして、ネガティブな感情もポジティブな感情も自分自身で変換できる、肺の素晴らしいチカラが心から愛おしく
呼吸をしている人全てに、生のチカラを感じるのです。